♪柱のき〜ず〜は おととーしーの〜
童謡「せいくらべ」には実に面白い歌詞が見られます。
1年前「さくねん」ではなく、2年前「おととし」を指しているところ、
または建築物=柱に傷を刻みつける事で身体成長を計り知ろうとしているところ等が実に面白い。
築80余年の長屋を日々改修すれば、この童謡に出てくる「柱の傷」どころか梁の傷、
壁の落書き、床のシミ、実に様々な過去の事象に出会います。
改修という行為においてそれらを消去する事は容易にできるし、保存する事もまた然りですが、
では、一体全体、その何を残して何を消去すればいいのでしょうか。
全てを白く塗りつぶしたり、黒くしたり、新旧の差異自体を消してしまえばいいのでしょうか。
それとも現代の材料を持ち込んで、既存部分との差異を強調すればいいのでしょうか。
これが実に難題なのです。
この長屋には本当に沢山の「柱の傷」がありますが、
それは今や誰の者とは分からない有象無象の記憶の集積です。
誰のものかも分からないのですから、私としてはまずはこれらを観察し、
整理調整、仕分けすることから始めるしか手が無い。
ところで、人が懐かしい記憶をふと思い出す時、
人はその思い出そのものとの奇跡の再会に驚くのではなく、
その懐かしい思い出を日々思い出さず、
のんのんと暮らしてきた『この今』『この現実』に驚くのでしょう。
「懐かしさ」や「思い出」とは、視覚的なものではありません。
見えないもの=時間を含むのです。
ですから長屋の無数の「柱の傷」は、全てそのままに保存すればいいと言うわけではなく、
あえて強調、又は消滅させなければならない。
なぜなら私が今、その見えないもの=時間に気付き、
見えるもの=異物を挿入しようとしているのだから。
延々と流れる時間に襞のように組み込まれる異物撤去・挿入作業、それが望まれる改修。
天井のベニヤを貼りながら、最近はそんな事ばかりを考えています。
いまだに改修意図はまとまりません。とにかく「場当たり的な判断」の積み重ねの日々です。